学ぶ教師と教える学習者

ブラジルの教育者パウロ・フレイレが教育のあり方について「教師のような生徒、生徒のような教師」と言う概念を示しましたが日本においても教師と呼べる教師はつねに学生のように学ぶ教師ですし、生徒らしい生徒はつねに批判的な目を持って自らが自らの教師となるような生徒です。「教える」「教えられる」と言うような2分化があたりまえになり、教育が直線的で硬直した会社組織のようになってしまってはそれこそ「自由を恐れる」若者ができてしまいます。今の日本の現状はそんな傾向が顕著になっていますし、何時の時代も権力者は教育を悪く利用してそのような若者、人間を作り出そうとします。自由を求めない人間は操作するために都合がいいからです。

フレイレは言います「自由は、贈り物のように差し出されるものではなく、勝利によって獲得される。それは、常に、そして敏感に、追求され続けなければならない。それは、人間の外に存在する理想などではなく、神話の世界の観念的なものでもない。自由とは、人間が完成を目指して行う冒険のために欠かすことのできない条件である」そして「自由は、知識を伴った行動である「実践」(プラクシス=PRAXIS)の所産であり、それを獲得するためには、理論と行動のどちらも欠けてはならないのである」と。批判教育学者のアイラ・ショアは「生徒が支配に対して疑問を抱き、それと向き合っていくように働きかける教育的手法」をその著書「Empowering Education」の中で、次のように定義しています。

「表面的な意味、第一印象、支配的な神話、公式見解、伝統的な決まり文句、標準的な知識、ただの意見に留まらず、深い意味、根にある原因、社会状況、イデオロギー、あらゆる行動・事件・目標・過程、組織化、経験、文章、主題、方針、マスメディア、言説がもたらす個人的な結果を考え、読み、書き、そして話すという習慣」。この言葉の中に今の日本に欠けているほとんどの問題点があります。1人1人が自分の頭で考え行動すると言う当たり前の事が風化しようとしているのです。十人十色、千差万別の人間性の中で「ヒューマニズム」と言う共通性がにじみ出るような人間をつくりだすことこそが教育の真の目標であるべきだと思うのです。

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